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アイドル不在の90年代前半!?

いつの時代にも音楽シーンを彩るアイドル歌手というのが存在すると思います。

 

70年代なら天地真理から始まり、山口百恵や桜田淳子、後半は石野真子、

 

80年代なら松田聖子から始まり、中森明菜、小泉今日子、中山美穂、工藤静香など

 

90年代後半には鈴木あみやモーニング娘などがいました。

 

2000年代にはAKB48やら乃木坂やら大人数のアイドルグループが量産されているようです。

 

これらのアイドルは人気もあり、知名度もあります。それぞれの時代を象徴していると思います。アイドルとは時に時代の顔の役割すらも果たすと私は思っています。

 

しかし私が記憶するに

 

平成4年(1992年)くらいから平成6年(1994年)くらいまで

 

アイドル歌手がいなかった!?

 

ように思うのです。

 

いや実際にはアイドルはいましたし、アイドルオタクもいてテレビで特集もされてはいました。

 

例えばこの時期に活動していたアイドルグループは

 

COCO、桜っ子クラブ、東京パフォーマンスドールなどです。

 

ソロでは完全なアイドルというのかはわかりませんが、観月ありさや内田有紀などでしょうか。

 

しかし、それまでの日本に存在していたアイドル像とは大きく異なり平成的な現代っ子の要素がかなりありました。

 

1989年(平成元年)ころからアイドル産業が下火になっており、徐々にバンドブームに移行していきます。そして90年代には多くのバンドが大ヒットを連発する時代が来ます。同時にアイドルと呼ばれる人たちはヒットから遠ざかります。

 

90年代前半は華やかで非現実的なアイドルよりもより都会的かつリアリティーのある、そしてジーンズなどがよく似合う若者像が流行として構築されていったと思います。

当時の若者が憧れるのはキラキラしたアイドルではなく、ジーンズを着こなすクールなかっこよさだったかもしれません。

80年代から90年代あたりは今以上に時代の移り変わりが激しかったような気がします。数年違うともうファッションも音楽の音も違っていました。そんな中で昭和的なアイドル感が一気にダサいものになっていった時代です。

 

1992年(平成4年)から1994年(平成6年)は日本にとって厳しい時代でした。それでも今よりも豊かさを感じる面は多々見られましたが、バブルが崩壊して一気に人々が不景気という現実を直視せざる得ない時代です。そんな中で華やかかつ非現実的なアイドルを受け入れる心の余裕はなかったのかもしれません。

 

この3年間は少し地味な印象がありますが、実際には多くの名曲も生まれた時代です。ZARDやMr.Childrenなど日本を代表するアーティストがブレイクした時期です。そして今の日本の雰囲気が始まり始めたのもこの頃かもしれません。それは景気の悪い日本。昭和ほどパワーが感じられない、でもまあそれなりには生きているというような。

 

日本にとってヒットするアイドルが不在という稀有な時代、それは時代の変化を示すものだったかもしれません。

 

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桜っ子クラブ

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東京パフォーマンスドール

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COCO




 

 

 

カセットテープがワカメになっちゃった?!

平成初期から21世紀の現在までになくなったもの必要がなくなったものというのが結構あると思います。

 

もう使わなくなってしまったもの、またはそれが必要なくなったがために失われてしまった習慣。

 

大事ではないし今の時代では必要ないものであればなくなってもしょうがないけれど

 

思い出すとくすっと懐かしい習慣が結構あるものですよね。

 

平成の時代、私は音楽が大好きでした。たぶん私だけでなく多くの日本人がCDをコレクションしていたのではないでしょうか。

 

当時は8センチのシングルCDと12センチのアルバムという風に規格されていました。

 

どこの町にもCD屋さんがあり私はいつも胸をときめかせて行っていました。そんなCDを子供だった私は一生懸命お小遣いを貯めて買ったものでした

 

しかしCDはシングルで1000円、アルバムは3000円となかなか高額でした。

 

そういう時は、テープに録音するというのが平成っ子の定番でした。

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1998年発売のSONYのカセットテープ


当時はどこの家にもCDラジカセまたはCDコンポなるものがあり、CDを入れて聞くこともできるし、テープを聞くこともラジオも聞くことができました。

 

テープは聞くだけでなく録音機能もありCDの音をテープに録音することができたのです。

友達からCDを貸し借りしテープに録音、またはレンタルビデオ屋でCDをレンタルしそれを録音し録音したらテープで聞く、そんな習慣が平成の初期にはありました。主に90年代の時代だと思います。しかし、そんな習慣も静かに失われていきました。

 

90年代の後半にはMDなるものが発売されたり、また2000年代に入り音楽の人気も徐々に低迷していき、YOUTUBEなどがでてきたり音楽配信サービスなどの台頭でCDの売り上げが低迷したりと、気が付けばCDさえも買わない時代になっていました。

 

90年代のカセットテープのコマーシャルはなかなかかっこいいものが多く、安室奈美恵などが採用されていました。かなりお金のかかったコマーシャルだったと記憶しています。それだけ音楽に関する産業が巨大なマーケットだったのかもしれません。

 

カセットテープというのはCDと違い巻き戻しや早送りに少し時間がかかるという不便さがありました。ボタンを押し聞きたい曲まで早送りしたりすべて聞き終わったら巻き戻すか裏返しにして続きを聞いたり、ある程度の ”動作” が必要でした。

 

あんまり聞きすぎるとテープがよれよれになってきてテープがぐしゃっとこんがらがることもありましたね。そうなるとそれまでのように良質な音で聞くことが難しくなり嘆いたものでした。

 

「ああ、テープがワカメになっちゃった~」

 

とか

 

間違って録音さてるテープに重ねて録音しないように

 

「録音終わったら爪おっといてー!おってもティッシュ詰めればまた録音できるから~」

 

とかこんな会話しませんでしたか?(笑)

 

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いろんなのがありました



 

ロッテリアのティラミスシェイク

私が子供の頃に住んでいた所はなかなかの田舎でした。そのせいかマクドナルドがありませんでした。しかし、モスバーガーとロッテリアはありました。どちらにも時々母親と弟と3人で買い物の帰りなどに行ったりしていました。

だいたい私はいつも、てりやきバーガーのセットを注文していました。弟もだいたい同じものを、母はフィッシュバーガーが定番でした。ドリンクははっきり覚えていませんがバニラシェイクかオレンジジュースなどだったと思います。

ところが、ある日、母が見慣れないものを注文しているのを食べ物にどん欲な私は見逃しませんでした。見慣れないパッケージに若干のおしゃれ感と大人っぽさを幼稚園児の私は感じたのでした。

 

それは、ティラミスシェイク

 

なるものでした。その時、私は初めてティラミスというワードを知り覚えました。私はあまりに気になったので母に「なにそれ!!ずるい!ちょうだい!」といいました。そして一口飲ませてもらった時、私の舌に衝撃が走りました。

 

それは、それは、魔法のように口に広がるちょっぴりほろ苦くも甘いチョコレートの香りとクリーミーな舌触り。

 

こんなおいしいものがよのなかにあるなんて!私は感動しました。ティラミスシェイクのおいしさに。

 

今考えるとオーバーですが当時はとにかくおいしく感じたものでした。それから、しばらくはティラミスシェイクを注文してくれるように母にお願いしました。

 

ティラミスというのはバブル期に流行ったイタリアンのスイーツで作り方は様々あるようですが、コーヒーがしみ込んだスポンジの上にクリームチーズと生クリーム、ココアパウダーなどがかかってるもので、なかなか重めなスイーツです。私が初めて口にしたティラミスの味はロッテリアのティラミスシェイクでしたので当然、本場のものではありません。しかし、子供の時は本格的かどうかは全く重要ではなく、ただおいしいかどうかで価値が決まります。

今の時代はコンビニで安価にしかもおいしいスイーツが簡単に買えますよね。だからかクリーム系のスイーツは特にめずらしくもなんともないですが、当時ましてや子供の時分には購入の自由がそもそもないうえに、スイーツも含めてあらゆるものの種類の豊富さがさほどなかった時代では新しくしゃれたもの、外国風なものに憧れたり珍しがったものでした。

 

私は知らなかったのですがどうやら2017年、2018年ころに期間限定で再発売されていたようです。全くそんなことも知らずにすっかりのがしてしまいました。残念!できれば、定番にしてほしいくらいなのですがもしまた再発売されたら次こそはと思っています。

 

ティラミスシェイクに胸をときめかしていた時代に感じたあの感動は今大人になり本格的なティラミスを食べたとしても味わえないものです。

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1991年発売時のティラミスシェイク

 

やっぱり昔の『ちびまる子ちゃん』が好き

1990年(平成2年)ちびまるこちゃんの初回アニメ放送が始まりました。有名すぎて何も説明する必要のないくらいの国民的アニメです。当時、幼稚園だった私も当然のように見ていました。子供だけじゃなく社会的なムーヴメントも起きていたような気がします。バラエティ番組で取り上げられたり、マルちゃん役をしているTARAKOさんがテレビ出演していたり、そしてちょうどこの時は世界的なレトロブームもあったことから『ちびまる子ちゃん』は素晴らしいタイミングで世の中にでてきたと思います。当時の日本はバブル景気の真っただ中、経済的にイケイケだった日本でちょっと一息つきたいというニーズに『ちびまる子ちゃん』は見事にこたえていたと思います。

『ちびまる子ちゃん』の舞台は1974年~1975年(昭和49年~昭和50年)の静岡県清水市で、これは原作者のさくらももこさんの子供時代がベースになっているそうです。どんどん豊かになっていく日本でひたすら前だけ見て働いてきた日本の大人たちは『ちびまる子ちゃん』の世界観にほっこりさせられ、そして懐かしさを感じたと思います。そして当時の子供たちには単純に新鮮で笑えるアニメとして人気がありました。

ちびまる子ちゃんの魅力はレトロな部分だけでなく何とも言えない独特の絵とブラックユーモアでした。さくらももこさんの描く世界観は本当に独特でインドや東南アジアの雑貨のような色彩感覚とアカデミックではない二次元のポップな前衛アートのようなアングロ感も漂っていました。実際に漫画の中に出てくるキャラクターの丸尾君は前衛的でアングロな絵を描くイラストレーター兼漫画家の丸尾末広さんがモデルになっていると言う説もありました。さくらももこさん自体がそういった前衛的なアングロ芸術に興味があったかお好きだった可能性もあると思います。

ブラックユーモア感は今のちびまる子ちゃんにはありませんが初期のまるちゃんは本当に人間臭いブラックユーモアがあふれていました。まる子ちゃん自身もそうですが友達のたまちゃんも性格がもう少しやらしい感じがありました。やらしいというのはスケベという意味ではなく、まるちゃんを目を細めて疑いの目で見たり、マルちゃんに対してあきれてみたり、もちろんいい子ではあったけど時々はそういう人間的な面もみせてくれていました。ちびまる子ちゃんは人間同士の中で起きるばつの悪い事柄を非常によく描き出しているなと思います。それは誰しも心当たりがあり共感できるような些細ではあるけどやっぱり恥ずかしいことです。何か気まずいことが起きるとキャラクターの目の下や頭の上などに何本かの縦線が間の抜けた効果音とともに下りてくるのも当時のまるちゃんの定番でした。

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まるちゃんとたまちゃん

個人的にはこんな初期の『ちびまる子ちゃん』が好きです。

 

www.amazon.co.jp

「どんなときも」が聞こえた1991年の夕方

1991年(平成3年、小1の頃、学校の帰り道、友達と遊んだ帰り道、塾の帰り道、

 

放課後の夕方のガソリンスタンドからよく聞こえていたこの曲。

 

どんなときも~、どんなときも~♬♪

 

槇原敬之さんが歌う「どんなときも」です。

 

1991年(平成3年)の大ヒット曲です。

 

この曲を聴くと何となく胸が切なくなるというか、前向きだけど少し切ない

 

そんな微妙なニュアンスが槇原さんの声とメロディーと歌詞に表現されているように思います。

この時代の私のイメージは『灰色のコンクリートの夕方』という感じです。

 

日本の経済はバブルで一度、頂点に立ち、1989年と1990年(平成元年、2年)とピークにありました。バブル崩壊はいつ起きたかというのは諸説あるようですが株価が下がり始めたのが1991年(平成3年3月ごろから)からはじまり、景気後退の自覚を持ち始めたのが1992年(平成4年頃)だと思われます。

 

昭和からバブル期まで日本は経済成長を続けていき、特にバブル期は浮足立った異様な雰囲気があったのかもしれません。しかし、1991年(平成3年)というのは何となく人々が現実を見はじめたとき。少し後ろを振り返ったり、夢から覚めた時かもしれません。

この槇原敬之さんのどんなときものPVの中では社会にもまれながら頑張る当時の若者の姿がうつしだされています。彼らの中にはきっと夢と現実の世界のギャップに苦しんだり、つらい修業期間を過ごし一生懸命涙をのみながら働いていた人もいたかもしれません。

何となくこの年にはそれまでのバブル的な浮かれた雰囲気から、そういう現実の痛みや葛藤にも注目をし現実的な世界観が歌に現れだした年だったような気もします。だから余計に共感を呼びヒットにつながったのかもしれません。

 

『灰色のコンクリートの夕方』のこのコンクリートの意味は、私たち昭和後期の生まれの世代にとって初めて見た世の中の景色はアスファルトで塗装された道路、鉄筋コンクリートなどのビルなど少し無個性の建物が多い時代に育っているという気がしています。例えば私の母の世代の学校の校舎は木造だったそうです。やがて母が卒業する年に木造校舎は取り壊され鉄筋コンクリートの校舎に変わったそうですが、真新しい鉄筋コンクリートの校舎に新鮮さとうらやましさを感じたそうです。昭和当時は現代的で都会的なものの象徴としてコンクリートの建物が存在していたのかもしれません。しかし、平成に入るとそんなコンクリートの建物にも汚れが目立ち始め、ひんやりと冷たくむなしささえ感じるような特に物珍しくもない存在へと変わってしまったように思います。

 

1991年(平成3年)はそんな昭和の夢が徐々にむなしく過去のものになっていき、現実の厳しさをたたきつけられている若者の葛藤が「どんなときも」に凝縮されてる様な気さえします。

しかし絶望的ではなく温かさとか、みんなで頑張ろうという励ましも感じられます。

 

疲れたときに、ぜひ聞いてみてください。

 

youtu.be

昭和生まれ、平成育ちとは

はじめまして。こんにちは。『昭和生まれ、平成育ち』というブログを開設しました。

 

コータと申します。

 

私はブログのタイトル通り昭和生まれです。昭和の後期の昭和59年生まれです。西暦でいうと1984年。生まれたのは確かに昭和ですが昭和の記憶はほとんどないといいますか、子供の時は昭和も平成も当たり前ですが気にせずに過ごしていましたので年号という概念を一切気にせずに昭和から平成をまたいでいました。

 

昭和は64年、1989年1月7日まで続き、平成はその翌日1989年の1月8日からスタートしています。

 

当時の私の年齢は4歳なので当然、昭和の記憶というのはそこまで多くありません。3歳から4歳の時の記憶は一部うっすらとはありますが、それは昭和の記憶というよりは私自身の子供時代の個人の記憶なわけで昭和の記憶としてかたれるようなものではありません。

 

私の記憶のほとんどは平成から始まっています。そして、幼稚園から高校までそして大人になってからしばらくも平成時代を生きてきました。令和になった今、平成が恋しくなったというには早すぎます。しかし、それでも私の子供時代だった平成初期のことを思い出すと、とても懐かしく胸が躍りもするし、少し胸がきゅんとなり切なくもなります。そんな懐かしい平成初期を少しずつ思い出しながらノスタルジーにゆっくり浸れる世界をこのブログで作っていけたらなと思っています。

同世代の方、平成初期のカルチャーに興味がある方に楽しんでいただければなと思っています。

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